最初は「なんだ、この人は」と思った。
ぼそぼそと喋る。
どこか頼りなさそうで、何を言い出すのか分からない。
ギターを持って、昔の歌謡曲を歌ったり、妙な話をしたりする。
ところが、見ているうちにやめられなくなった。
気がつけば、夜中の3時まで見ていた。
なぜこんなに面白いんだろう。
何本も見ているうちに、少しずつ分かってきた。
この人、ギターがとても上手い。
歌もちゃんとしている。
昭和歌謡についても、ものすごくよく知っている。
そして何より、あの頼りなさそうな喋り方も、妙な間も、突然出てくる言葉も、実はかなり考えられているのではないか。
適当にやっているように見えて、適当ではない。
そう思った途端、ますます面白くなった。
柴崎さんは、
「ここをこんなふうに描いて……」
という感じで、いとも簡単そうに描いていく。
見ていると、自分にもできそうな気がしてくる。
それで私も同じように描いてみた。
柴崎さんの画面には、見事な犬が現れた。
私の紙には、なんだかよく分からない犬がいた。
おかしい。
同じように描いたはずなのに。
柴崎さんが何気なく引いた一本の線は、ただの一本の線ではないのだ。
長い年月、ものを見て、描いて、失敗して、また描いてきた人の一本の線なのだろう。
簡単そうに見える。
でも、簡単ではない。
タブレット純さんを見ていて、もう一人、昔の芸人を思い出した。
帽子を使った芸で有名だったが、私の記憶に強く残っているのは、金属のはしごを使った芸だ。
子どもの頃は、ただ「面白いなあ」と見ていた。
しかし今思い返すと、あれはとんでもない芸だった。
はしごと身体の重心を自在に操り、危なっかしく見せながら、ちゃんと笑いにする。
一歩間違えば転倒する。
それを「すごいでしょう」と見せるのではなく、笑わせてしまう。
あれもまた、簡単そうに見せるために、どれほど身体に芸を叩き込んだのだろう。
難しい美術史の話をしているのに、難しい話を聞いている感じがしない。
雑談を聞いているうちに、気がつけば一枚の絵の背景や、その時代のことまで少し分かったような気持ちになっている。
でも、あんなふうに話すためには、その何十倍、何百倍ものことを知っていなければならないはずだ。
知識を見せびらかさない。
技術を見せびらかさない。
それなのに、見ているうちに、
「あれ? この人、ものすごい人なんじゃないか」
と、こちらが気づいてしまう。
私は、そういう人が好きなのかもしれない。
そして考えてみれば、これは音楽も同じなのではないか。
難しい曲をものすごい速さで弾く。
それももちろん素晴らしい。
けれど、誰でも知っている簡単な旋律を、何でもない顔をして美しく弾く。
こちらの方が、ひょっとするとずっと難しい。
音程、音色、弓の使い方、フレーズ、呼吸。
本当はいろいろなことを考えている。
長い年月をかけて身体に入れてきたものもある。
でも、それを全部聴く人に説明する必要はない。
ただ一つの旋律が自然に流れて、
「なんだか、この音はいいな」
と思ってもらえれば、それでいいのかもしれない。
若い頃は、すごいものは「すごそうに見える」と思っていた。
けれど、この歳になって少し考え方が変わってきた。
簡単そうに描く。
雑談のように話す。
ぼそぼそ喋りながらギターを弾く。
はしご一本を持って舞台に出てくる。
そして、こちらが後になって気づく。
「この人、とんでもないことをやっていたんだな」と。
実力というものは、わざわざ前に出さなくてもいいのかもしれない。
長い時間をかけて身につけたものなら、隠していても、どこかから滲み出てくる。
そんなことを考えながら、昨夜もタブレット純さんを見ていた。
そして時計を見たら、午前3時だった。
これはこれで、ちょっと見過ぎた。