トルストイの言葉から考えた、音色の「個性」と「共通原理」
トルストイの『アンナ・カレーニナ』の冒頭に、とても有名な言葉があります。
もちろん、これは家庭について書かれた言葉です。
ところが先日、ヴァイオリンの音色について考えているとき、ふとこの言葉を思い出しました。
もしかすると、音色にも同じようなことが言えるのではないか。
そんなことを考えたのです。
音色は、一人ひとり違う
ヴァイオリンの音色は、演奏者によって違います。
これは当然のことです。
ヴァイオリンも弓も、基本的には人の手によって作られたものです。
同じ製作者が作ったとしても、木材が違い、性格が違う。
そこへ演奏者の身体が加わる。
そう考えれば、
二人の人間がまったく同じ音色を出すことなど、むしろ不可能に近い。
そして私は、それでいいと思っています。
スターンとズッカーマンは、同じ音ではない
例えば、アイザック・スターンとピンカス・ズッカーマン。
二人とも素晴らしいヴァイオリニストですが、その音は同じではありません。
音の立ち上がりも違う。
音の密度も違う。
ビブラートも違う。
弓の使い方も違う。
音楽の語り方も違う。
それでも二人の演奏を聴いて、
「どちらかは美しい音で、どちらかは間違った音だ」
とは思いません。
違う。
けれど、どちらも美しい。
では、なぜでしょう。
ここに音色を考える上で、とても重要な問題があるように思います。
「人それぞれ」で終わっていいのだろうか
音色について話していると、
「音色なんて好みでしょう」
「人によって違うでしょう」
という話になることがあります。
確かにその通りです。
しかし私は、そこで話を終わらせてしまうことには少し疑問があります。
もし本当に、
「音色はすべて人それぞれ」
だけなのであれば、音色を教えることはできません。
左手をどう使おうが、
弓をどう使おうが、
身体がどれだけ緊張していようが、
「それもあなたの個性です」
ということになってしまう。
でも、実際にはそうではないと思うのです。
美しい音には、共通するものがある
優れたヴァイオリニストの音を聴いていると、それぞれ個性は違っても、どこかに共通するものがあります。
例えば、
出てくる音は違っても、
美しい音が生まれるための条件には、共通するものがある。
私はそう考えています。
美しく鳴らない理由は、それぞれ違う
ここで、トルストイの言葉に戻ります。
しかし、美しく鳴らないときの原因は実にさまざまです。
だから私は、トルストイの言葉を音色に置き換えて、こんなふうに考えています。
もちろんトルストイがヴァイオリンについて言った言葉ではありません。
私が音色について考える中で、この言葉と重なるものを感じただけです。
しかし、とてもよく本質を表しているように思います。
「共通する」と「同じ」は違う
ここで一つ、大切なことがあります。
共通するものがあることと、同じ音になることは、まったく違います。
私は生徒さんに、自分と同じ音を出してほしいとは思いません。
手も違う。
身体も違う。
使っているヴァイオリンも違う。
弓も違う。
好きな音楽も違う。
それなのに、全員を同じ音色にしようとする方が不自然です。
しかし、
弦が自然に振動できる状態を作る。
これは共通して考えることができます。
そのために左手のタッチを考える。
楽器の構え方を考える。
ボーイングを考える。
接点を考える。
ポジションチェンジを考える。
ビブラートを考える。
こうしたものには、身体や楽器が違っても共有できる原理があります。
原理を学ぶことは、個性を消すことではない
ここは音楽教育で、とても大切なところだと思っています。
「基礎を教えると個性がなくなる」
という考え方があります。
私はむしろ逆だと思います。
身体に余計な力が入り、弦の振動を妨げている状態では、その人本来の音色はまだ十分に現れていない。
左手が自由になり、
右手が自由になり、
楽器が自然に振動し、
身体と楽器がうまく調和したとき、
初めて、
その人にしか出せない音が出てくる。
つまり、
**共通する原理が、個性を消すのではない。
共通する原理の上にこそ、個性が現れる。**
私はそう考えています。
音色は「教えられないもの」ではない
だから私は、音色は教えることができると思っています。
ただし、
「この音を出しなさい」
と教えるのではありません。
先生の音をコピーさせるのでもない。
美しい音が生まれるために、
身体はどういう状態であればよいのか。
左手は弦にどう触れればよいのか。
弓は弦とどう関係すればよいのか。
弦をどう振動させればよいのか。
そうした共通する仕組みを伝えることはできます。
そして、その条件が整った先に出てくる音は、その人自身のものです。
自分の音を見つけるために
ヴァイオリンも違う。
弓も違う。
身体も違う。
そして、したい音楽も違う。
だから最終的に生まれる音色が一人ひとり違うのは、当然です。
しかし、
「人それぞれだから何でもいい」
ということではない。
そこには、自然な弦の振動や身体の使い方といった、共通する原理がある。
その原理を探していくことが、私が長い間考えてきた「音色」の問題なのだと思います。
トルストイの言葉を借りて考えれば、
でも、
その美しさの中に、一人ひとり違う声がある。
だから面白い。
そして、その人自身の美しい声を見つけるために、技術を学び、身体を整え、楽器と向き合う。
結局、そこから生まれた音色もまた、最終的には音楽のためにある。
良い音楽をするために、良い音色を得る。
私はやはり、そこへ戻ってくるように思います。